事実とコンテキストについて

これは某所に提出したレポートです。以下、本文。

事実は各個人のコンテキストのうえで支持され合意の上で成り立っている。

コンテキストについて

各個人のコンテキストとは、端的に述べると各個人の今まで生きてきた人生そのものである。 それらコンテキストはさまざまな影響を受け、一つとして同じものはない。

たとえばリンゴを見たときに、コンピュータメーカーを連想するか、近所のパン屋のパイを連想するか人によって異なる。 では質量とエネルギーの等価性(E=mc^2)やピタゴラスの定理(c^2=a^2+b^2)はどうだろうか。さらにいうと「いろは」の次は何か、と問われれば同じ回答をする割合に有意な差がみられるであろう。 母集団も同様で、これが日本だったら、フランスだったら、同じ問いに対して回答が異なるのは容易に想像できる。

これらは専門知識、因習、文化、宗教など様々に呼ばれているが、つまりこれがコンテキストであり、 上記のとおりコンテキストには通じる集団の大小があり、それは通じる範囲の大小によって階層状になる。

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ある人が海外旅行にいったとしよう。 彼は文化が異なる地域があることを知り、違いにとまどいながらも、そういう文化もあるのかと理解していく。 このとき何がおこったのだろうか。 彼はまず自身のコンテキストにそって行動をしようとする。 その結果、うまくいくこともあれば、文化の違いによってうまくいかないこともある。 彼に合理性があれば、何故うまくいかなかったのだろうと、結果から理由を考える。 そして文化の違い、つまり違うコンテキストが存在したことを知り、 結果として、違うコンテキストが存在するのだということを知る。

ここで彼のコンテキストのある階層は、そのコンテキストは固定化された同一のものではなく、地域性を帯びたコンテキストに分割される。 そしてその上層にそれらを地域によって選択的に判断できるコンテキストの層が形成される。 一般的に、彼は知識を手にいれたことにより思考の柔軟性が増したといえる。

彼のさらに上層のコンテキストについて考える。 彼はある国のある地域に住んでおり、母国語で考え喋る。 これらのコンテキストは上記の経験によって何が変わるだろうか。

たとえば海外旅行で別の文化にふれたからといって母国語が変わるだろうか。 つまり一部には変化はあるだろうが、全体としてみると変化は軽微なものになるであろう。 よってコンテキスト全体としては、以前として安定している状態であろう。

これらのことから、各個人のコンテキストは同一のものではないが、大体について通じると思われている範囲が階層状に存在する。 そして、ある出来事は、認知され階層の一部について変化をあたえることもあるが、全体としては既存のコンテキストに組み入れられ、 コンテキストの階層構造は安定したままになるといえる。

事実について

事実とは、あるコンテキストの層で意味あるものとして選択的に支持されたものとみなせる。 事実は、科学的に合意されたものや宗教的に合意されたものなど様々なものが考えられるが、ここでは科学的なものについて考える。

科学的な事実は、ある者がある現象を認知し、それを他の者が確認をし、確からしいという合意のうえで支持され形成される。 確かかどうかの確認は、一般に再現性があるかどうかで判断される。

科学的な事実が形成される以前は、その現象は存在しなかったのだろうか。 現象自体は存在していたが無視や忘却されていたか、別のコンテキストの層の事実として合意されていたと考えられる。

たとえば盆地で遭難が多く発生しており、それを祟りと伝承されていたが、調べてみたらガスが滞留する地理的な構造になっていたといったものである。

このとき関連するコンテキストの層のあいだでは事実が移動し、それにともなって構造が変化し、 結果的に、新たに判明した事実はどこかのコンテキストに組み入れられる。

ではそもそも、なぜ事実を支持するのか。 無数の事実候補の存在に対して、事実と認めるものは何が違うのか。

事実を認めるとコストが下げられるためと考える。

ここでのコストとは、代表的なものとして時間的なコストや認知的なコストがある。 人は生物という分類のなかにあり、寿命があり、いつか死ぬ。 あるコンテキストではこれは支持される事実であろうが、 そのコンテキストでは、時間という概念が存在し、よって人の時間は多寡はあれど有限なものである。

その有限な時間のなかで、確からしいと認められたものを事実と認めると、 その背景にあるコンテキストを、あるコンテキストの層を共有する人が自身のコンテキストに効率的に組み入れることができる。

具体的な行動の一例として勉強というものがある。 得られた事実はそれが形成されるまでの時間を背景としてもち、また多くの場合一意的な名称があたえられるので、 時間的なコストや認知的なコストを、それ以前に比べ、下げることができ、 またその事実の一意性によって、それをコンテキストのなかで合意がされたものとして有益に用いることができるようになる。

この事実の認知、組み入れはコンテキストの各階層において発生しており、恣意的にこれをおこなうことを教育ということができる。

なぜコンテキストを形成するか

これは言いかえると、なぜ勉強するのか、なぜ経験するのか、さらにいうとなぜ生きるのかの議論になるだろう。 一つの仮説を挙げるのであれば、生存のために有利であるからである。次の瞬間に存在が消えてなくなるのであれば、事実にどんな意味があるだろうか。